ベランダの室外機の上に積もる黄砂の粉が、私の春を少しだけ変えた話

見ないふりしていたベランダの小さな粉
春になると、なぜか部屋の中よりも、ベランダのほうが先に季節を知っている気がする。
4月24日。暦の上では「穀雨」のころ。春の雨が、草木を育てる季節らしい。雨って聞くと、しっとりした桜の名残とか、若葉の匂いとか、そういうきれいなものを想像したくなる。
でも、私のベランダにあったのは、そんな詩的なものではなかった。
室外機の上に、うっすら積もった黄色っぽい粉。
最初は、見なかったことにした。
だって、仕事から帰ってきて、洗濯物を取り込んで、スマホを見ながら夕飯を考えて、気づけばもう夜。ベランダの室外機の上なんて、人生の中で優先順位がかなり低い。
だけど、その粉は毎日そこにいた。
朝、カーテンを開けるたびに、少しだけ目に入る。
洗濯物を干すたびに、なんとなく気になる。
でも、拭くほどでもない気がする。
いや、拭いたほうがいいのはわかっている。
けれど、今じゃない。
そうやって私は、室外機の上の粉に対して、まるで自分の心のモヤモヤみたいな扱いをしていた。
見えている。
気づいている。
でも、触れない。

きれい好きではない私が気になった理由
私は、自分のことを特別きれい好きだとは思っていない。
むしろ、外ではちゃんとして見られがちなのに、家ではまあまあ雑だ。洗濯物は畳まずに椅子に置くし、郵便物は一度テーブルに置いたら数日そのままになる。お風呂に入る前にスマホを見始めて、気づいたら一時間たっていることもある。
だから、室外機の上の粉くらい、本当なら気にしないはずだった。
でも、その日はなぜか気になった。
たぶん、朝の光がやけに明るかったからだと思う。
春の光って、優しい顔をしているのに、部屋のホコリや窓の汚れを容赦なく見せてくる。
昨日まで「大丈夫」にしていたものが、急に「いや、ちょっと無理かも」に変わる。
私はウェットティッシュを一枚持って、ベランダに出た。
室外機の上をそっと拭くと、白いはずのシートが、すぐに薄い黄色になった。
思わず「うわ」と声が出た。
誰に見せるわけでもないのに、なんだか恥ずかしかった。
部屋の中の散らかりなら、まだ言い訳できる。忙しかったとか、疲れていたとか、今日はたまたまとか。
でも、ベランダの室外機の上の粉は、私が放っておいた時間そのものみたいだった。
見えないふりをしていたものは、ちゃんと積もる。
それが黄砂なのか、花粉なのか、ただのホコリなのか、正直なところ全部を見分けることはできない。だけど、春の空気がいろいろなものを運んでくる季節だということだけは、なんとなく体でわかる。
鼻がむずむずする日。
肌が少しざらつく日。
洗濯物を外に干していいか迷う日。
空が晴れているのに、なぜかすっきりしない日。
春って、きれいなだけじゃない。
新生活、衣替え、気温差、人間関係の変化。
明るくなっていく季節なのに、心の中はなぜか追いつかない。
私は室外機の上を拭きながら、ふと、最近の自分もこんな感じだったなと思った。
ちゃんと元気なふりをしている。
ちゃんと笑っている。
ちゃんと仕事に行っている。
だけど、心のどこかに、うっすら粉が積もっている。
それは大きな悩みではない。
誰かに相談するほどでもない。
泣くほどでもない。
でも、確実にそこにある。
ベランダ掃除は、自分をご機嫌にする儀式だった

室外機の上を拭いただけで、ベランダ全体がきれいになったわけではない。
床の隅には砂があるし、サンダルの裏も汚れている。排水溝のあたりは、まだ見たくない世界が広がっている。
それでも、室外機の上が白く戻っただけで、少し気持ちが軽くなった。
不思議だった。
たった一枚のウェットティッシュ。
たった数十秒。
なのに、私はその日、少しだけ自分を取り戻した気がした。
掃除って、きれい好きな人だけのものじゃないのかもしれない。
完璧に片づけるためじゃなくて、今日の自分に「ここまではできたよ」と言ってあげるためにあるのかもしれない。
私は、ベランダの端に置きっぱなしだった空の植木鉢もついでに動かした。去年、何か育てようと思って買ったものだ。結局、何も植えないまま春が来て、また春が来た。
それを見て、少し笑ってしまった。
私はいつも、始める前に理想を大きくしすぎる。
朝活をするなら、白湯を飲んで、ストレッチして、手帳を書いて、栄養のある朝ごはんを作る。
掃除をするなら、部屋全部を片づけて、収納も見直して、ついでに人生も整える。
ブログを書くなら、誰かの心に残るような、完璧な文章を書かなきゃと思う。
でも、本当は室外機の上を拭くだけでよかったのかもしれない。
人生を変えるほどの行動じゃなくていい。
誰にも褒められないことでいい。
写真を撮って投稿するほど映えなくていい。
ただ、自分が少し呼吸しやすくなることを、ひとつだけやればいい。
その日、私は洗濯物を外に干すのをやめた。
晴れていたけれど、なんとなく空が白っぽく見えたから。代わりに部屋干しにして、窓を少しだけ開けて、空気清浄機をつけた。
大げさかもしれない。
でも、自分の体が「今日はちょっと守ってほしい」と言っている気がした。
昔の私は、こういう小さな違和感を無視していた。
大丈夫。
みんな頑張ってる。
私だけ弱いわけじゃない。
このくらいで疲れたなんて言えない。
そんなふうに、自分を説得するのが得意だった。
でも30代になってから思う。
自分に厳しくしても、誰かが特別に表彰してくれるわけじゃない。
我慢した分だけ、肌も心も静かに荒れていく。
だから私は、室外機の上の粉を拭いた日から、少しだけ生活の見方を変えることにした。
ベランダを見る。
空を見る。
洗濯物を干す前に、今日は外に出していい日か考える。
鼻や肌の調子を「気のせい」にしない。
帰宅したら、バッグを床に置く前に一呼吸する。
本当に小さい。
でも、小さいから続く。
小さいから、私みたいなズボラな人間にもできる。
そして、小さいことほど、意外と心に効く。
最後に、室外機の粉が教えてくれたまさかの真実
数日後、私はまたベランダに出た。
前に拭いた室外機の上には、またうっすら粉が積もっていた。
正直、少しがっかりした。
あんなに拭いたのに。
ちょっと丁寧な暮らしをした気になっていたのに。
春の空気は、そんな私の努力など知らん顔で、また粉を置いていく。
私はため息をつきながら、もう一度ウェットティッシュを取りに戻った。
そして室外機の上を拭こうとした瞬間、気づいた。
粉の上に、細い線がついていた。
最初は、風でできた模様かと思った。
でも、よく見ると、それは小さな足跡みたいだった。
鳥?
虫?
それとも、夜の間に何かが歩いた?
急に、ただの汚れだった粉が、物語に見えてきた。
誰もいないと思っていた私のベランダに、夜のあいだ、小さな訪問者が来ていたのかもしれない。
私はその足跡をしばらく見つめた。
そして、少しだけ泣きそうになった。
だって私は、室外機の上の粉を「放置していた自分のだらしなさ」だと思っていた。
でも、本当はそこに、誰かが通った跡が残っていた。
汚れだと思っていたものが、記録だった。
見たくないと思っていたものが、誰かが生きていた証拠だった。
その瞬間、私は自分の心の中に積もっていたものも、少しだけ違って見えた。
疲れ。
迷い。
嫉妬。
焦り。
何もできなかった日の罪悪感。
それらは全部、私がだらしないから積もったものだと思っていた。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
それは、私が毎日ちゃんと生きて、働いて、人と関わって、傷つかないふりをして、それでも前に進もうとした跡だったのかもしれない。
室外機の上の粉は、きれいに拭き取れる。
でも、そこに一瞬だけ残った小さな足跡は、なぜか拭くのが惜しかった。
だから私は、その日は半分だけ拭いた。
足跡のところだけ、少し残した。
誰にも見せない。
写真にも撮らない。
ブログに書かなければ、誰にも知られない。
でも、私だけは知っている。
この春、私のベランダには、小さな物語が来ていた。
そして私は、ただの黄砂だと思っていたものに、少しだけ救われた。
春は、きれいな花だけを連れてくるわけじゃない。
粉も、砂も、くしゃみも、肌荒れも、洗濯物の迷いも連れてくる。
だけど、その中に、思いがけない足跡が残っていることもある。
だから明日も私は、カーテンを開ける。
完璧な朝じゃなくていい。
丁寧な暮らしじゃなくていい。
ベランダが少し汚れていてもいい。
ただ、今日の空と、今日の自分を、見なかったことにしない。
それくらいの春なら、私にも続けられそうだ。
◆>>歯石取り、着色落し、口臭ケアなど目的に応じた施術を2,500円からというお手頃な料金で提供 スターホワイトニングクリーニング



